滄州劈挂拳の歴史
1930年上海武術大会決勝戦
劈掛拳は古くは「披挂拳」「梅花長拳」とも呼ばれていました。
明代中期から戚継光が書いた「紀效新書」という書物に「披掛横拳而其快也」と論及されている徒手武術です。
文書の図の多くが劈掛拳単勢と同じであったそうです。
その後、代々継承されて中国清代中期頃には、河北滄州で二つの系統に分かれました。
滄州南皮一帯では郭慶発により劈掛拳が伝授され、塩山一帯では左宝梅が伝えておりました。
郭慶発は南皮県龐庄出身。体格が大きく、武功は非凡であったと記録が残されております。
若い頃は他の地で保鏢(用心棒)をしておりましたが言い伝えでは武挙(武官選考試験)に受かり、武状元となり、後に皇帝に見込まれ、清宮武衛に選ばれ、皇帝に武術を教授しました。晩年この劈掛拳を南皮県咎庄の趙氏に伝え、趙氏は三代継承し、趙士奎まで伝えられました(伝承図参照)。
民国初年、趙士奎は河北保定の軍閥である曹錕の武術営で、武術大師の劉玉春を師とし、通臂拳及び苗刀を学んだ
後に師の言いつけにより、劈掛拳を弟弟子の郭長生に伝えました。
郭長生は兄弟子の趙士奎から劈掛拳を学んだ後、通臂拳の歩法である激絞連環歩を加え、伸びやかさ、素早さ、バランスの面で、劈掛拳の技術水準を大いに高めました。
劈掛拳は独特の風格を持ち、攻撃方法を際立たせ,面目を新たにした姿を武林界に現しました。
1928年中央国術舘成立後、郭長生と馬英図はお互いの技芸に感服し、意気投合し、義兄弟の契りを結びました。
その後二人は劈掛拳の整理と修正を行い、郭長生は馬英図の弟子である郝鴻昌、程健の二人も協力し、劈掛刀、瘋魔棍を創編し完成に至りました。今まで南皮系には長短兵器が伝えられてなかったところ、馬英図及びその弟子らの協力により、新たに伝えられるようになりました。
近年滄州において、郭長生は劈掛拳の真諦を曹硯海、高玉清、郭景春(健偉)らの高弟、息子の瑞林、瑞祥に伝え
郭長生が亡くなった後、瑞林、瑞祥兄弟は父の芸を受け継ぎ、技を伝えました。長子の瑞林は最も技撃に優れ、その弟子の王柏生、何清賢は全国擂台試合で度々入賞を果たしました。
次男の瑞祥(館長の師)は文武両道で、弟子の王志海、王華峰の二人は全国観摩交流大会において劈掛拳、瘋魔棍で三大会連続金賞を取り、中国国内で高い評価を得ました。また日本人弟子の古謝も中国国内をはじめ、日本の大会において1位を獲得し、日本では劈掛拳、瘋魔棍では誰もが認める実力者となりました。
また、公表はしておりませんが通臂拳、劈掛刀、、苗刀の実力において中国滄州武術館、郭瑞祥老師も継承者として認めて日本の武術で言うところの免許皆伝を得ております。
現在、郭家の伝承武術においては、日本、韓国、中国、欧米で指導を許された数人のうちの一人となり、日本はもちろん周辺外国での教授審査と技術監査に関わる立場におります。
曹硯海
曹硯海(日本語発音では そうけんかい)は郭長生師爺門下、随一の実力者であり、興味深い話であるが当時、王薌斎にも師事し意拳を学んでいる。少なからず郭家と意拳との関係がこの当時からあったということであるが、郭家が一流であれば自ずとそういう人物とも関わりがあることは理解できる。
しかし、この滄州武術の天才は若くして亡くなった。
郭瑞祥老師もそのことをとても残念そうに古謝館長に語っている。
館長古謝も意拳と通臂拳の共通点が多く、かなり吸収している内容であると見解を持っておられる。ライフワークとして研究も行っている根拠となるものなので紹介した。